皆さん、人のまねをしているのは良くないという言葉は聞いたことが無いでしょうか?
有意義な人生には独自の創造性が必要で、既存のルールを使った遊びや仕事は良くないという話をです。
学生から社会人まで一生聞かされる助言です。
具体的に言われるのは、消費側に回ることは良くなく、出来るだけ生産側に回る方が良いということです。
ゲームを作るのは創造的で良いが、そのゲームで遊ぶのは良くないというような名無しです。
遊園地を作るのは想像できだが、そこで遊ぶのは単なる消費と言う意味です。
でも、これは間違っています。
もちろん、運がよく提供側になることが出来れば、それを意図的に手放す必要は全くありません。
ここで言いたいのは、仮に消費側で楽しんでいたとしてもそれを罪悪に思わないでほしいと言う事です。
第一章 創造者が少ない現実を認めます
株式市場を考えます。誰に聞いても株式市場は社会システムとして動いていると考えます。
何度か不況はありましたが、それでも別のシステムに流れることはありませんでした。
もし、全ての人が独自でなければいけないという事であれば、株式市場などと言うシステムは破綻しています。
でも、破綻していません。気持ち悪いくらい世界中の人々が株式市場と言う仕組みを使っています。
ここからが本題ですが。完全に人のまねが良くないという事であれば、株式市場と言う仕組みに乗ることが問題なわけです。
これは、ごく一部の人が創造した株式市場と言う仕組みに、全員が乗っているという意味です。
そもそもの社会システムがごく一部の創造者が作ったものなわけです。
コンピュータのCPUや言語、OSなどのプラットフォームもごく一部の人が開発しています。
そして、大多数はその上に乗ったうえで何かを作り出しています。この大枠を作ったのはフォンノイマンという科学者です。
音楽理論も大枠はJ.Sバッハが作ったと言われています。88の鍵盤に特定の周波数を割り振り、演奏中に調整を変えずに
12の調を演奏できる仕組みは今の主流です。そのうえでいろいろな音楽が発表されていますが、これも一部の創造者に
多数が従っている例の一つです。
そう、世の中の大多数が一部の創造者や創造物に従っているわけです。まずは、これを現実だと考えてください。
第二章 完璧な模倣は芸術です
バッハ以降の近代音楽は単なる模倣であり、芸術ではないという人はいません。
そして、現在その音楽を研究したり、忠実に演奏することが芸術とされています。
コンピュータ技術もフォンノイマンの理論の元に現在も拡張されていますが、これも十分科学だと言われています。
日本の剣道、弓道、茶道、書道などと言われる何とか道と呼ばれる行いも、定められた作法を守る形で行われています。
囲碁将棋も同じルールの下で長年試合が行われています。
私はそれらを十分芸術や科学と考えます。ごく一部の創造者が基本的なところ考え
後を進む人はその考えを忠実に守っていく模倣なわけです。
もちろん、その中で世界を動かす革命的なことも起こっていますが、それこそ少ないです。
昔に友人が、ピアノを練習するのは創造的であるか?と疑問を投げかけていました。
その時は私も分からなかったですが、今ではピアノを練習することは創造的であると私は言えます。
模倣や真似事が絶対的に創造的であるかは私は断言できません。
しかし、創造者でないことを根拠する創造的ではないという論法は否定します。
人の後を歩くことは楽と言う話は聞きます。ここまでは私は良いと考えます。
しかし、多くの助言ではそのあとに、だれもが歩いていない場所を歩くように言います。
これを、芸術の模倣に当てはめるとこうなります。
ピアノの練習曲と言う誰から歩いた道を歩くのではなく、自由にあなたの心から弾きたいと思ったことをやればよい
こんなことを言っているようなものです。もし、これが正しければ、友達の家にあるピアノやオルガンを乱打するだけで
何か芸術的な道が開かれるわけです。 でも、そんなことはありません。
誰もが、ピアノやオルガン、ドラム、ギターやヴァイオリンを適当に操作して音を出した経験はあると思いますが
そこから、何らかの創造性を発揮できた人はいないと考えます。
楽器で創造性を発揮できた人は、既存の楽曲を練習した人であることは断言します。
消費の娯楽と揶揄されるビデオゲームも、ゲームプレイを極めれば見てくれる人はいます。
スーパープレイは芸術になるのです。でも、ゲーム自体は一部の創造者が開発しています。
第三章 自分が良ければそれでよい
ピアノを買って毎日飽きずに毎日演奏しているとします。
10年たっても一曲しか演奏できないとします。
大体の人は馬鹿にします。全然上達しないとか、あの人はピアノを止めた方が良いとか絶対に言います。
これでバカなのは、周りの意見する人です。
そして、次にバカなのはその意見に流されて、新しい曲を練習したり、ピアノを処分してしまう人です。
これは極端ですが、こんな意識があるのは現実です。
この理由は、創造性を義務にしてしまうところです。
周りの意見で間違った義務感が植え付けられて、やりたくもないことをやってしまうわけです。
自分で次の音楽を覚えたいとか、表現力を高めたいと考えたなら問題ありません。
しかし、周りから言われたから新しいことに手を出すのは大問題です。
この、自分一人で考えることが出来るのは重要です。
テクノロジーは生活を豊かにすると言われますが、「自分が良ければそれでよい」という考えに取っては害悪が多いです。
それは、SNSです。直接的には相手の「いいね」を期待して行動したり
周りがこうしたらよいと意見を気にしてしまうところです。
これが、昔なら全くなかったわけです。
家にピアノを買ったとしても、交流関係は弾いている事すら知らなかったと言うことがあるわけです。
ゲームなら自分だけで出来たわけです。 囲碁や将棋もそれが面白いと思う人だけでやっていたので
不要な交流関係からの干渉は無かったわけです。
SNSやネットが無かったときは、「自分が良ければそれでよい」という考えが自動的に貫けたわけです。
だから、自分の趣味は積極的に隠したほうが平和だと考えます。
まとめです
第一章 創造者が少ない現実を認めます
- ルールを作った人はごく一部です
- すべての人は仕組みの上にいます
- ノイマン、バッハなど名をあげられる創造主は少ない
第二章 完璧な模倣は芸術です
- 先人の真似は悪ではない
- 弓道、書道、華道は創造的である
- 楽器を乱打しても何も生まない
第三章 自分が良ければそれでよい
- 自分が良ければ上達しなくても良い
- 外部からの義務感は悪です
- 趣味の外部配信は害悪が多い
テレビの取材で自宅を見せたくないという有名人は多いです。
その理由としては、自分の遊びは神聖であると考えているからです。
遊びは自分で楽しむことであり、人に見せるものではありません。
さらに、人に見られると不要な助言が耳に入ります。これも問題です。
人の意見を聞かない人は失礼とか石頭と考える原則があるからです。
ここで、間違った対策として、自身の失礼さや石頭を治そうとするところです。
でも、治すのはそこではありません。そう、神聖なものは人に見せなければ良いのです。
自分のコレクションを興味のない人に見せるのは悪いことです。
理由は、相手がつまらないと思うからではありません。
大切なコレクションを不要な人に見せることで、不要な助言を耳にしてしまうことです。
だから、自分のプライベートは緩く隠すのが必要だと考えます。
別に鉄壁の防御である必要はありません。この意味で趣味を隠したいのであれば
職場、飲み会で趣味の話をしない。趣味が特定できるグッズを身に着けない。ステッカーを張らない。
リビングに趣味の物を飾らない、むやみに趣味の部屋にお客さんを入れないなどです。
趣味が外部に侵される理由としては、興味のない人に見せることです。
別に相手は攻撃の意図はありませんが、他愛ない言葉、悪気が無い言葉、大きなお世話、良かれと思った助言など
知らないうちに侵してしまいます。
だから、ある程度の防御は必要です。
子供の時に、好きなアニメキャラのグッズを見られて馬鹿にされたとか
そういう人を見たことは無いでしょうか?
女子向けとされるアニメを男子が見ていた。
年齢層がずれた作品。リーダー的存在がバカにする作品など
そんなグッズを持っていると突っ込まれます。
これも、人に見せたいという承認欲求から生まれます
だから、幼少期からこの手の問題があるわけです。
もし、自分や理解できる人だけで楽しんでいればこのようなことは防げたわけです。
自分が望まなければ、進歩や世間の流行の事は考える必要はありません
そのことにより、創造性を義務に感じなくなり自分のペースで趣味を満喫できます。
それが無駄な行動を防止し、無駄な出費を減らし貯金できます。