残念ながら詰め込み教育は必要です 不要と主張する人は天性の才能の成功体験がある人です

「詰め込み教育は不要」と言う主張は今も昔も聞かれます。しかし、現代でも継続して行われています。詰め込む量は減っていますがそれでも児童生徒の頭痛の種にはなっています。

暗記重視の教育は止めて、自由活発な討論などを重視した教育の方が良いという主張もあります。このような主張があるとテレビでも事例が紹介されたりします。私が知っている物ですと「テレビ学習」や「フィールドワーク」、「ディベート」です。

確かにそれらは児童生徒にとっては楽しいです。しかし、詰め込み教育の代替手段となっているかと言うとそれは否定します。先ほどの「楽しい」と言うのは覚えるのが楽になるという意味ではなく、覚えることをする代わりにテレビや外を歩く、ディベートで何も考えずに物を言ったり、消極的に聞いていると言ったりすることです。 そう、単にサボっているだけだから楽しいわけです。

私の主張ですと、テレビ学習は基礎を覚えるには分かりやすいですが、それ以上の学習は自分で演習する必要があるわけです。フィールドワークにしても、知識があって観察が役立つわけです。 ディベートも討論する目的を設定できてこそ役立つわけです。

残念ながら児童生徒に対して「井戸水」と「水道水」のどちらが良いか?と言う事をディベートしてもらう事は無理だと考えます。理由は知識が無いからです。ライオンと虎のどちらが強いか?と言う話も同様です。イベントとして両者を檻に入れて戦わせる物を想定しているのか、自然での生存を分析したいのかの評価すら出来ないわけです。

「理想の給食」とか「理想のクルマ」、「未来の家屋」と言った子供向けコンテストがありますが、それらは技術討論と言うより、図画工作的な自由な発想を評価されているわけです。トヨタ自動車もそのようなコンテストを行っていますが、絵画としての斬新さを評価しているわけであって自動車技術としての面は見ていないわけです。

https://toyota.jp/sp/yumenokuruma/

多くの子供の自由な発想を求められる機会は図画工作や芸術の部分のみであり、知識を覚えるという部分では全く求められていないわけです。この二つの分野の混同が詰め込み教育が自由活発な討論で代替できるという勘違いを生んでいると私は考えます。

では、どうしてそのような勘違いが発生するかと言うと、いわゆる「天性の才能による成功体験」がある人が勘違いしているからだと考えます。

「自転車を器用にコントロールできる」「スケートやスケボーなどをすぐに乗りこなせた」「学校の授業も聞いているだけで覚えられた」「絵が上手くかけた」これらの成功体験を天性の才能で取得した人はいわゆる学習の難しさが分からないわけです。

「スケボーに乗れる人はスケボーに乗るのに基礎練習など不要」

と勘違いするわけです。これが問題なわけです。ほとんどの人はまともにスケボーに乗ることなど出来ないので、手取り足取り教えてもらいながら練習するしかないわけです。ただ、人って厳しい鍛錬からは逃げるので、そんな人はスケボーには乗らずに別なことをやるわけです。そして、「天性の才能で苦労せずに覚えた人」だけがスケボーに乗るわけです。

このように何か天性の才能であまり苦労せずに技能技術を取得した人は「詰め込み教育は不要」とするわけです。

そして悲劇はこれから起こります。天性の才能で技能技術を取得した人は本気で基礎練習無しで他の分野も理解できると勘違いするわけです。

一方でこの勘違いをしにくい人は、資格取得などの勉強を自分で本を読んで行った人だと考えます。 当然本を読んでも内容は知らないわけなので、自分で努力して覚えていくわけです。この体験をしていれば詰め込み教育が必要であることが理解できると考えます。

分かりやすい例としては「アイスホッケー」が良いと考えられます。まず、私はアイスホッケーは出来ないと断言します。理由として「アイススケート」がまともに滑れないからです。そう、アイスホッケーはアイススケートを滑ることが出来るという基礎技能の上でなりなっている競技なわけです。分かりやすい依存関係です。

詰め込み教育も実は「アイスホッケー」と言う実用をするため覚える「アイススケート」のようなものであると考えます。

https://www.webchikuma.jp/articles/460

哲学をするには論理を知らないと出来ないという主張もあります。ここでの例えとしては

「論理を知らないで哲学をやろうとするのは、フランス語を知らないでフランス文学をやろうとするようなものだ」

というものです。これは納得します。アイススケートの下りで書きなすと

「論理を知らないで哲学をやろうとするのは、アイススケートを滑れないのにアイスホッケーをやろうとするようなものだ」

とスムーズに書き直すことが出来ます。そして意味の破綻もありません。

このように物事を行うには基礎になる部分の学習や習得は必須なのではと考えます。もちろん、基礎を100%にしないと応用が出来ないという意味ではありません。基礎0%では応用は出来ないと言っているだけで、基礎が10%になったら基礎を練習しながら応用も実践していくという並列学習は出来ると考えます。

Amazonで哲学に必要な論理の本を買います。

残念ながら詰め込み教育は必要です 不要と主張する人は天性の才能の成功体験がある人です

「詰め込み教育は不要」と言う主張は今も昔も聞かれます。しかし、現代でも継続して行われています。詰め込む量は減っていますがそれでも児童生徒の頭痛の種にはなっています。 暗記重視の教育は止めて、自由活発な討論などを重視した教育の方が良いという主張もあります。このような主張があるとテレ...